Day 12 東ヨーロッパ女一人旅 アウシュビッツ編
ちょっと日にちはだいぶ飛びますが、アウシュビッツに行ってきました。
そこで感じたこと、考えたことが多かったので忘れないうちに先にこの記事を書こうと思います。
まず、アウシュビッツとは。
ドイツ軍が第二次世界大戦のときに、ユダヤ人や、同性愛者、ジプシー、またはヒトラーの政策に反対する人々を政治犯として収容し大量の人を虐殺した場所です。(こうやって文字にしちゃうと、さらっと読み流してしまいそうでそこがまた怖いところです。)
名前を聞いたことがある人は多いかもしれませんが、場所がドイツではなくポーランドにあることを知る人は少ないかもしれません。
ドイツがポーランドに進行した際に作られたので、ポーランドにあります。またポーランド語でのアウシュビッツの正式名称は、地名に基づき「オシフィエンチム」というものです。クラクフからバスで1時間半くらいのところにあります。
アウシュビッツはドイツ語で、ドイツ軍が自分たちが呼びやすいようにそのように呼んでいたのですが世界的にドイツ語の方が定着しました。
そしてここは「アンネの日記」を書いたアンネ・フランクが亡くなったことでも有名な場所です。
また、アウシュビッツのような収容所はヨーロッパの中に数多くあるのですが、ここが一番規模が大きい収容所ということで、世界的に有名です。
アウシュビッツのことをいろいろと調べているうちに、日本人ガイドさんの存在を見つけました。
アウシュビッツで唯一の日本人ガイドらしく、「考えさせる」ガイドをしてくれることで有名な中谷さんという方です。
旅行会社等を通しても連絡はとれますが、個人的に中谷さんにメールを送り、中谷さんと予定が合えば他の日本人の方も含めてガイドをしていただける。というシステムのようです。
そしてガイド料はその日に集まった日本人で割るみたいなので、日によります。
私はアウシュビッツに向かう5日前くらいに急に連絡をとったにも関わらず、ちょうど予定が合ったみたいで私が行きたかった希望通りの日に中谷さんにガイドをしてもらえることになりました。
ガイドはアウシュビッツで英語等でも行われているみたいですが、しっかりと説明を受けたかったので、日本人の中谷さんにお願いしました。が、これが終わったあとにほんっとに中谷さんにお願いしてよかった!!と大っ満足の内容でした。
いろいろと、検索して中谷さんの連絡先を見つけましたが、けっこう見つけるのが大変だったので私のブログにも中谷さんの連絡先を載せておきます。
中谷さん:nakatani@wp.pl
中谷さんとメールでやりとりをした結果12:15に待ち合わせとのことだったので、それに間に合うように前日に駅の窓口でバスの時間を聞きました。
あんまり本数はないようで、9:40発のバスで11:30着とのこと。
窓口のおばさんの対応がとーーっても悪くてとっても冷たくて、本当に最小限のことしか教えてくれないから「まっ、負けない!!」って思ってガンガン聞きました。(笑)
おばさんの塩対応けっこう怖いけど、大事です。ガンガン行く姿勢。(笑)
バスのチケットは「Krakow Glowny」というクラクフの中央駅のバスターミナルの窓口で買えます。
とても大きいバスターミナルなのでとにかく駅へ行けば見つけられます。
電車でも行けるらしいですが、電車はアウシュビッツの最寄りの駅まででそこからは市内のバスを使うか徒歩で20分ほどらしく、バスだどアウシュビッツの目の前まで連れて行ってくれるのでバスを使うことにしました。
値段は片道たったの4€。
アウシュビッツには11時半前に着いたので、ぶらぶらと外で時間をつぶし、集合時間近くに待ち合わせ場所の前で何人かの日本人と中谷さんと合流し、ツアー開始です。
今回は飛び入りで参加した日本人の方もいるらしく、通常は声がよく聞こえるように10人以上は受け付けないらしいですが、今日は12人の参加でした。
アウシュビッツ周辺は驚くほど寒くて寒くて、雪もちらついていました。
デンマークより全然寒かったです。
行く前にいろんな情報を集めていると、施設内のどこでもお花を供えられるということだったので入り口に入る前に目の前の売店でお花を買いました。
お花の種類は薔薇しか売っていませんでした。
荷物のチェックなどをうけてすぐ、見えてきたのは有名なあの入り口の門です。
みんなここに「働けば自由になれる」といって連れてこられましたが、実際生きてこの門を出られた人々はほとんどいなかったそうです。
連れてこられたユダヤ人も今までの対応等からその言葉を信じている人はほとんどいなかったらしいです。
門の近くに張り巡らされている有刺鉄線。当時は脱走防止のために400vの電圧が流れていたそうで、脱走なんてなかなかできません。(日本の家庭用の電圧は100vです。)
運よく脱走できたとしても、当時は周辺に住人があまり住んでいなかったらしいので、隠れるようなとこも簡単には見つからなかったでしょう。。
門をくぐって、中に入ると建物はこんな感じ。
ちゃんと綺麗に建物が並んでいます。
中谷さんは「ドイツはプライドも高かったし、技術も発展してる国だったから、人を大量に殺している場所でさえ汚い建物などは作らないよ」って言ってました。
建物の中は資料や当時の写真、物が展示されていました。
真ん中の大きな赤い●の部分がアウシュビッツで、これはいかにヨーロッパ中の国や都市から、ユダヤ人がアウシュビッツに連れてこられたかを表している図です。
何人の人がここに連れてこられたか書いてあります。
6年間で、130万人です。 そしてそのうちの110万人はユダヤ人でした。
ドイツやヨーロッパ諸国は今では過ちを認めていますが、当時はドイツ人にとってたくさんの人々をここに連れてきて殺すことは「ドイツ人を他の民族から解放するため」にやっていました。
収容されていく女性と子どもたち。
「子どもは母親が本当に困っているのを見ると、わめきもしないし泣きもしないんですよ」と説明してくれる中谷さん。
これは収容した一人一人についてのデータをまとめた書類です。
ここでとてもハッとさせられることを言われました。
「このように書類にするという行為がどいうことか分かりますか? これをすることで、人を殺している。という事実がデーターを入力してまとめる。という機械的で簡素な作業に代わるのです。書類を作ることにより、自分は命令やルールに従ってやっているのだという意識が生まれる。そして罪の意識は薄れていく。
では責任の所在はどこにあると思いますか?
ここで働いてた元ドイツ軍の軍人は、アウシュビッツが解放されたときに謝った人は誰一人としていませんでした。なぜならばみな、命令やルールに従ってやっていただけだと思ったからです。
では、ルールは誰が作っていますか?法律を作ったりしてトップに立っているのは政治家ですね。
その政治家は国民によってえらばれましたね。
責任の所在は国民にあると言えるでしょう。」
本当にその通りだ。と思いました。
日本でよく言われている、若者はもっと選挙に行くべきだということ。選挙に行く大切さ。
今まで頭ではわかっていた。だけれども、政治に関わる人を選ぶ大切さ。それを改めて突き付けられたような気がしました。
この写真は、列車に運ばれてきたユダヤ人をドイツ軍が見た目、年齢、体力の有無等によって選別しているところです。
正面奥に進んでいる人は働けると判断されて、これから強制的に働かされる人々。
右奥に列を作って待っている人は、働き手にならないと判断され、これからガス室に送られる人々です。
働くことができると判断されても、その人を収容する場所がないためにそのままガス室に送られる人も多かったそうです。
運ばれてきた人々の靴。
中谷さん:「今でも形がこのようにしっかり残っているのは、革靴が多かったからです。 では、ユダヤ人はみんな革靴を買えるくらい豊かだったのか?
違います。 みんないきなりたった一つのスーツケースに荷物をつめて移動しろと言われる。
スーツケースに一体いくつの靴が入ると思いますか?
そのとき、一番お気に入りの、上等な靴をみんな持ってくるでしょうね。」
彼らは、当時ヒトラーにの政策に反対した当時でいう「政治犯」でした。
政治犯だと言われた人々は、このように身体の一部に番号を刻まれたらしいです。
中谷さん:「このように番号を体にいれられるだけで、まるで囚人のように見えませんか?だけれども彼らは、今でいう英雄ですね。」
収容された人々は、人種や、収容された理由によって区分され、洋服の胸の部分に異なる印をつけられたらしいです。
たとえば、同性愛者はピンクの逆三角形、ソビエト軍の人はSUというように。
そしてこの区分が収容されている人の中でも、仲間意識、差別意識を生み出し、それがお互いを監視しあうという行為に繋がったらしいです。
収容された人の服。模様が縦じまの理由は、彼らが逃亡した際に目立ちやすくするためです。
これはジプシーの子どもたちです。ジプシーは盗みなどをよくするからジプシーが町からいなくればもっと町は平和になる。という理由で連れてこられました。
そして、そのような行為をするジプシーの子供たちも危険な思想を持っているに違いない。
この写真に写っている右から2番目の女の子は、ジプシーの子どもであるがゆえに子孫を残すべきでないとされ、子どもを産めなくなるような身体にされる人体実験をされたそうです。
たくさんの人が銃殺された「死の壁」。
この壁の周りには一年中お花が絶えないそうです。
そして私が訪れるつい1週間ほど前がアウシュビッツの開放記念日だったため、式典が行われ、その時に各国から送られた花が置かれていました。
中谷さん:「花のところにあるリボンを見てください。旗の色は国旗を表しています。国境を越えていろんな国から花が送られているということですね。そして、今ではドイツからも。」
壁の隙間に埋められている小さな石は、ユダヤ人がここにきて残していったものだそうです。ユダヤ人はお墓にいつかは枯れてしまう花を置くのではなく、永久的に残る小石を置いていく習慣があるそうです。
ここにきて、たくさん殺されてしまった自分の先祖を思って小石を置いていくユダヤ人の気持ちはどんなんだろう。と考えました。
どくろマークが書いてある先にある小さな建物は監視塔で、このどくろマークから一歩先でも外にでると、何も予告などなしに銃殺されたそうです。
そして、右側と左奥に建物が分かれて建っているのは、男性と女性を分けていたからで理由はユダヤ人は子孫を残すべき人種でないと考えられていたかららしいです。
左奥の木の陰に隠れて見えるのは、アウシュビッツの所長であったルドルフ・ヘスの家です。
こんな、本当に数ぽ先に、彼は彼の奥さんと子どもたちと共に良い父親として暮らしていたそうです。
中谷さん:「彼は自分にも子供がいたにも関わらず、ユダヤ人の子どもを殺すことはできた。それは精神的にうまく自分の子どもとよその子どもを分けることができたからですね。それができない不器用な人は、例えば日本人で有名な人で言えば杉原千畝さんなどだと思います。意外にも器用に物事を考えられることができる人の方が危ないかもしれないということですね。」
ルドルフ・ヘスは戦後捉えられ、アウシュビッツに連れ戻され処刑されたそうです。
ルドルフ・ヘスが残酷な人間であったからアウシュビッツの所長になれたのか?それは違うのではないかと思います。
彼らの子どもたちは、「父親は家に帰ってくると本当にいい父親であり、世界で一番偉大で優しい父親だと思う」といっています。理由は、彼が所長に任命された時、それを断れば命令に背くということで、それが彼の家族にどういう結果をもたらすのか、そして彼が拒否しても結局は代わりがいくらでもいることを彼はよくわかっていたかららしいです。
そして残された彼の家族は、自分が元アウシュビッツ所長の家族であることを周りに隠し続け毎日周りからの目に怯えて暮らしていた。
という、彼の家族のインタビュー記事を見たのですが、ドイツ人でくくってしまえば加害者にしか見えないかもしれないけれども、戦争が終わったあとも自分は直接的に関わってなくてもずっと自由になれずに怯えている人がいる。
それを聞くと彼の家族は加害者ではなく、被害者で。
戦争から生まれるものなんて勝っても負けても何もない、と強く思いました。
もしもルドルフ・ヘスの子どものインタビュー記事を読みたい人は、この二つの記事へ飛んでください。私的にはぜひ2つ目を読んでほしいです。
ガス室です。とても寒かったので雪がちらついています。
ヒートテックを着て、ヒートテック機能つきのフリースを着て、もこもこのコートを着ているのに寒くて寒くて仕方がなかったです。
それでも中谷さん曰く、今年は暖冬らしいです。
本当はもっともっと寒いのにここに収容されていた人々はあんな薄い服で過ごしていたんだな。。。と思いました。
ガス室の中です。
人がこの中に入った後に、ガスを入れたのはドイツ軍でしたが、その後の死体処理。焼却などはすべて他のユダヤ人に命令してやらせていたそうです。
中谷さん:「ドイツ軍は自分でやらないことで自分の手を汚しませんでした。それが余計に自分が人を殺しているという感覚を薄めた。そしてどんどん歯止めがきかなくなっていったのですね。」
ガス室を出た後、ガス室に花を置きたいと中谷さんに伝えていたので、置いてきていいですよ。待ってますから。と言われ一人で戻ってガス室の中に置いてきました。お花をガス室の壁にたてて、手を合わせました。
ここで一つ目の収容所は終了です。次に最も規模が大きい第二の収容所ビルケナウにバスでみんなで乗り、向かいます。
バスは第一収容所の終りのところから出ていて、ビルケナウまではバスに乗って5分ほどです。
写真には撮っていませんが、第一収容所で心に残ったことは大量の女の人の髪の毛が展示されていた部屋。そこは遺族の人に申し訳ないからという理由で写真撮影禁止なのですが、量の多さに目を背けてしまう人が多いそうです。
私はガラス越しにピタリと張り付いてしばらく見つめていました。
一人の女の人から大した髪の毛の量もとれないだろうに、こんなに。。。
そしてこれだけあってももちろん全員分ではないのだ、と思いながら。
刈り取られた髪の毛はアウシュビッツという名前をかくして、絨毯やコート、毛布の毛の一部として作られ出荷されたそうです。
だから出荷されたものが今どこにあるかは誰にもわからない。何十年もたった今でも、私たちが今ふつうに使っているものの中に紛れ込んでいたとしてもおかしくないらしいです。
髪の毛が展示されているところ以外は撮影OKなのですが、なんだか気持ちがいっぱいになって写真を撮らずにただ見つめていたところが何か所かあります。
それは収容されていた人が連れてこられるときに持っていた大量の食器や、ティーカップなどです。
中谷さん:「ここに連れてこられる人は、新しい場所でちゃんとした生活ができるなどと考えた人はほとんどいなかったでしょう。それでもこうして食器などを持ってきたのは、少しでも子どもたちや家族を安心させたかったからです。」
。。。中谷さんの言葉に胸が痛くなりました。
そして、ユダヤ人がユダヤ人の死体を焼却しているところを、作業中のユダヤ人がドイツ軍にばれないようにこっそりと撮った写真。
中谷さん:「彼は外の世界にこの現状を伝えるためにこの写真を撮りました。ばれたときの自分の命が亡くなることを覚悟で。彼は歯磨き粉のチューブの中にこの写真を入れてかくして持っていました。しかし、この時他の国は実は知っていたのですね。この収容所の存在を。この時代に上から撮られた航空写真もあります。」
展示の中にあったある一つのビデオ。
ポーランドでユダヤ人がドイツ軍に連行されていく際のビデオです。
中谷さん:「見てください。これ。わかります?町は動いているのです。電車や人はふつうに行きかっているのです。みんな現状は知っていた。だけれども助けたり、何かをすることはできなかった。
今の時代と似ていますね。みんなたくさんの移民がいてボートの転覆により亡くなっている人や、家がなくて困っている人がいることは知っている。だけれども、個人でできることは限られている。」
そして他の展示を見ている際に中谷さんが言ったこと。
中谷さん:「当時ドイツは知識もあった、発展した国だった。だけれどもこのようなことが起きてしまった。それはなぜだと思いますか?
人々の精神を支える教育が追いついていなかったからです。
日本はこのようなことが起きないような教育はできていると思いますか?日本は高齢化社会です。
もしもこれから海外からたくさんの働き手を日本に集めた場合。そして彼らの方が英語も日本語も話せて頭がよくて自分のボスなどになったとき。
自分が下になったとき。彼らを恨まないような、対等に見るような、教育はできていると思いますか?
そのようなところから始まり、このようなホロコーストは意外にも簡単に成り立ってしまうのです。」
この問いかけにとてもハッとさせられました。私は、心のどこかでドイツに起きたこととしてのみ捉えていた。そしてこの時代だったから起きたのだとさえなんとなく思っていた。
それでも難民問題に対しても、これからの日本の姿と照らし合わせても、ホロコーストのような状況や、それを生み出す気持ちは本当にどこでもいつでも、簡単に起こってしまうのだと気づかされました。
これが、ビルケナウ第二収容所です。有名なアンネフランクはここで亡くなりました。
そして、これが実際にユダヤ人を運ぶために使われていた列車です。
冬はとても寒く、夏はとても暑かったようです。
中谷さん:「ユダヤ人の搬送は、優先順位の中で一番最後でした。そのため、ユダヤ人を運ぶのに何日もかかりました。この一つの電車に約40人ほどつめこまれ、トイレをする場所も、座る場所さえももちろんありません。そのため、ユダヤ人が到着したとき彼らは排泄物でまみれていた。それが余計にドイツ軍からしたらユダヤ人が汚くみえたのですね。」
その時一人の日本人の人が、中谷さんに「ドイツ軍はユダヤ人を戦争に送らせて代わりに戦わせるということはしなかったのですか?」という質問をしました。
中谷さんの答えは忘れてしまいましたが、その後に
中谷さん:「現代でいうと、それに近い思想があります。
それは空爆の際に使用している無人の飛行機です。あれは遠隔で操作していますが、`代わりに`ロボットにやらせていますね。
あれは人を殺しているという感覚が実際より薄れてしまうでしょう。」
と、話していて、それもなんだか考えさせられる深い言葉でした。
これは当時使われていたトイレです。壁も何もないので、プライバシーなど何もありません。
ここ来てトイレを使用できるのは、一日に2回だけだったようです。
全ての写真を載せきっているわけではないですが、こんな感じでツアーは終了しました。
他に印象に残っていた中谷さんのお話は、
「昔、西ヨーロッパは発展しつくしてしまったから作るものがなくなり職を失う人が増えました。そこで、西ヨーロッパの人は東ヨーロッパへ行き、東ヨーロッパで物を作り始めました。その代わりに東ヨーロッパの人が西ヨーロッパへ来て西ヨーロッパで下水の処理等などのあまり人がやりたがらない仕事をやりました。
こうやって、おお互いの経済のために人を交換していたのですね。
しかし、それは西の人から見れば自分は仕事はないのに、他の国から来ている人は仕事がある。そして汚い仕事をやっているために外国人は汚いというイメージがつくということが起こりました。
教育が追いついていないとそういう思想になるのです。」
また、アウシュビッツは入場料がないのですがそのことについて、
「入場料がない形でアウシュビッツが保存されているのは、ドイツだけでなくヨーロッパ諸国も自分たちが見過ごしたという過ちを認め、後世に伝えようという動きが出てきているからです。
これを例えば日本に置き換えると、
今韓国と慰安婦像の撤去の話が問題になっていますが、日本人が韓国の方に「その像を残しておいてくれ」と言ったらどうなりますか?
韓国の方はそのことについてもう何もいう事がことができなくなりますね」
この言葉にはかなり衝撃でした。日本のなかでいくらニュースを見てたって像を取り除けるかどうかの観点からのニュースしか出てこない。
とっても簡単なことなのにそんな考えまったくででこなかったし、それこそ本当に歴史の過ちを見つめなおして相手の国の人に誠意をもって謝るというこだな。と。
ツアーの最後の方に中谷さんの
「ここではグローバル化や他民族共生の答えを考えるための材料があります。答えが見つかるかどうかはまた別ですが、一番良い答えのために考え続けるのと考えることを放棄するのとではだいぶ違う。教科書で見るだけなのと、実際にここに来て感じることももまた違います。」
という言葉で締めくくりました。
もう、本当に行ってよかった。そして、中谷さんにガイドをお願いしてよかった。と思える内容のものでした。
中谷さんは過去に起こったこととしての説明だけをくれたのではなく、現代と繋がる問題を提起してくれた。
それが私にとって本当によかったです。
私の学校は外語大学なので、移民について学んだり、日本のなかのハーフの人の立ち位置について考えたり、外国人の先生も多かったり、グローバル化について考える機会が授業を通しても多いのですが、それがここを訪れたことでなんだか全部繋がって、一つになって自分の中にスっと入っていくような気がしました。
なぜならハーフや、移民。topicは1つ1つ異なるように見えても、根っこの部分は同じ。そしてそれが間違った方向に進むと進んでいくさきはアウシュビッツにあるようなもので、全部繋がっているんだ。と、私が授業を通して学んできたことの意義強く感じることができたからです。
アウシュビッツに来る前、ホロコーストについて勉強しようと、歴史やナチ時代についての本を読んだり映画をたくさん見ました。そして、映画を見た後は自分の気持ちも暗くなることが多くて、なんで私はみんなが楽しそうにしているのに一人で昼間からこんな暗い気持になっているんだろう。
昔のことや遠く離れたヨーロッパのことなんか気にしないで、本当に自分のことだけ考えていられればもっとハッピーなのに。
と、たまに思ってしまうことがありました。
しかし、それは間違いでたとえ勉強することで悲しくなっても過去を振り返って現代の問題とつなげて考えることが大事なのだと。
強く感じました。ここに来る前、過去は過去のことだとだけ捉えて、現代の問題と切り離して考えていた自分が恥ずかしくなりました。
私がもともと、こういうtopicに興味があったからなのかもしれませんが、本当に行ってよかったです。
ぜひ、いろんな人に自分で行って感じて、考えてほしいと思いました。
しかし、ここまできて中谷さんにガイドをお願いしても、中谷さんに向かって
「ユダヤ人は、アウシュビッツを残すことで世界から同情を買って政治的権力を握ろうとしているんだろう。」
という人がいるらしいです。
ここまできて、そんなことを言う人がいるのはとても悲しいし、みんながみんな同じように考えるわけではないよね。とも思いました。
とっても長い記事になりましたが、読んでいただいてありがとうございました。
アウシュビッツに足を運ぶ人が一人でも多く増えますように。
㊟中谷さんの言葉は私の回想なので、すべて中谷さんが言ったとおりではありません。